水槽にて

守りたいものが多すぎる

雪の日

 愛は衝動だ。

 衝動というのは恐ろしいもので、熱を帯びてしまえば簡単には消えそうもない。あなたのその困ったような表情で、初めて自分が馬鹿だと気付く。いらない期待をしてしまう。例えば、寒い朝に早起きをすること。通学路の凍結。枝に積もった粉雪が、白い花のようにきらめき、朝焼けの光で蜜のごとく溶けていくこと。どうしようもないことなのに、それでも一瞬思うのだ。

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 俺は首を振った。たまらなくなって布団にもぐる。舞い上がったほこりを吸わないよう、まくらに顔をうずめていた。彼女とはしばらく会っていない。たくさんの想いがかけめぐり、期待も希望も叶わないと知っているのに、どうしてだろう。季節が過ぎるのはとても早く、暦の上では春なのに、また今夜も雪がちらついている。寒くて眠れなかった。起きて窓を開ければ、小さく星が輝いている。
 「……」
 また衝動にかられている気がした。椅子の背にかけてある厚手のコートに手を伸ばす。何も考えずに袖を通し、財布と携帯を持って家を出た。時刻は午後11時。予想以上の寒さだった。肩をすくめて歩き出せば、家の前には街灯が一本、いつものように寂しく突っ立つ。
 梶田雪。ユキさん。
 夜になると決まって思い出す人だった。彼女と出会ったのは数ヶ月前。当時、俺は大学受験をひかえる高校生だった。季節は霜月の暮れ、初冬。その日も凍えるような寒さで、塾の帰りにたばこ屋の横の自販機でコーヒーを買った。かじかむ指を温める。
 「あの、すみません」
 缶のプルタブを押しあけたとき、後ろからか細い声がした。聞き覚えのない声に、思わずあたりを見回す。自分にかけられた言葉なのかわからないまま振り返ると、誰かが俺を追ってきていた。その前髪がひるがえり、露わになった白いひたい。
 「おつり取るの忘れてましたよ」
 女の人だった。ワイシャツの襟を整えながら、彼女は握ったこぶしを差し出す。数百円の小銭が手の中に落ち、俺はぎこちなくお礼を言った。
 「手、大きいんですね」
 すると彼女がつぶやくように言ったのだ。これがユキさんとの出会い。それからは時々、塾帰りにユキさんを見かけたりすれ違ったりすることが増えた。増えたというか、多分今までもすれ違ってはいたのだろうけど――手、大きいんですね――あの言葉がなぜか頭から離れず、知らない間に彼女を探していたのだと思う。
 ユキさんはたばこ屋近くの駅を経由しているOLらしかった。どこの会社の人なのかは知らなかったけれど、髪を一つに束ねてせわしなく足を動かしている姿を見ると、忙しそうだなとかそういうどうでもいいことから、一生懸命だな、かっこいいな、あ、今転びそうになった、うん、それでもやっぱり凛としてて、なんていうか。ユキさんがぶかぶかのコートを着始めるくらいには、もう完璧に好きだった。

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 そして冬休み前。俺は塾帰りにコーヒーを買うことが日課になっていた。またユキさんと話ができるかもしれない。そんな気持ちが100パーセント。別に特別コーヒーを飲みたいわけでもないのに、俺の財布には風穴が空きまくりだった。この日もいつも通り、勉強で疲れ切った頭をくらくらさせながらたばこ屋の自販機にお金を入れた。自販機が硬貨を飲み込むのを待ってから、慣れた手つきでコーヒーを選択する。するとどうだろう。当たった。おおげさにピコピコ音を歌いながら、自販機のボタンは再び光りだす。割と喜びつつもう一度コーヒーを選んだ。二本の缶コーヒーを両手に、温かい気分で振り返る。瞬間、俺の体に電気が走った。
 彼女だ。
 俺の真後ろにはユキさんがいた。多分死ぬほど変な顔をしていたと思う。びっくりした。近くにいた。並んでいたなんて、気付かなかった、全然、気付かなかった。戸惑いを隠しきれない俺の顔を、ユキさんは不思議そうに一瞬仰ぐ。特に何の反応も見せないまま、彼女が自販機にお金を入れようとした、そのとき。
 「あの!」
 思わず、声をかけてしまった。ユキさんが驚いて俺を見る。
 「これ。当たったんですけど二本も飲む気分じゃないんでよかったら貰ってくれませんか。えっと、この前おつり渡してくれたじゃないですか。それのお礼もあるし」
 なんだかやたら早口になってしまったような気がする。それに、おつりのことがあったのは結構前だし、この前なんかじゃないのに、そもそも覚えてくれているかなんてわからないのに。言った後に後悔する。このときばかりは寒さも忘れていた。
 「……あ」
 彼女が口を開く。俺は自己嫌悪の中から目を覚まし、ぱっとユキさんの方を見た。ユキさんは少しだけ困ったような顔をして、だけど小さく微笑みながら襟を触る。
 「ごめんなさい。わたしコーヒー飲めなくて」
 それを聞いて恥ずかしくなった。当たりが出たテンションで、たまたまユキさんが後ろに並んでいた嬉しさで、何を勝手に盛り上がっていたのだろう。急に声をかけてしまって、ああ、もう。すみませんと頭を下げ、帰ろうと踵を返した。
 「待って」
 すると次はユキさんが俺を呼びとめた。咄嗟に振り向く。ユキさんは肩に持っていたかばんに財布を仕舞い、そっと、俺の方へ手を伸ばした。
 「やっぱり貰っておこうかな……寒いし」
 飲めないと言ったのにも関わらず、貰ってくれると言ったユキさん。なんだかたまらなくなって、コーヒーを手渡しながら俺はまた勝手に盛り上がっていた。
 「あの、駅まで送ります」
 今思えば知り合いでもない男が突然何を言い出すのかという感じだが、このときの俺は必死だった。せっかく話せたこの機会を、逃すわけにはいかない。もう少しだけ話していたい。でも駅ってすぐそこですよとユキさんが笑う。空回りするばかりの俺に、彼女は少し恥ずかしそうに言った。
 「でも、あの、ありがとう」
 俺からコーヒーを受け取り、おじぎをしながら去っていく彼女。俺はユキさんの後ろ姿を気持ち悪いくらいずっと見送っていた。

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 思い返せば昔のようにも、昨日のようにも思えるものだ。俺は濃くなっていく夜の闇に体を震わせ、ユキさんはもうこの街にいないのに、どこを歩いていても彼女のことが浮かんできて笑ってしまう。会いたいと思っている自分が嫌だった。
 静かな住宅街を抜ける。雪が積もり始めたアスファルトを滑らないよう踏みしめながら、その足はあの場所に向かっていた。旧道沿い、たばこ屋の近くにあるさびれた公園。あそこは星がよく見える。
 北風がびゅうと吹き、山の緑が波打った。俺はコートのフードを掴んで風の侵入をしのぐ。寒さは肌に刺さるようで、指先や爪先など、体の端から死んでいくようだった。家を出てまだ少ししか歩いていないのに、早くも感覚が鈍くなってきている。はあ、と息を吐くと、案の定、それは真っ白な霧となって宙へ溶けた。マフラーくらい巻いてくるんだった。
 公園に到着する頃、雪はもうやみかけだった。遊具にもたれて天を仰ぐ。星の瞬きは弱かった。懸命に光ってはいるけれど、もうじきどこかへ消えてしまうような、そんな気がした。夜空をゆっくり見たのは久しぶりで、そこでは冬の大三角やオリオン座、おうし座などが大きく場所をとっている。
 「あの、どうしたんですか。こんなところで」
 そっと、ユキさんの声が聞こえた。だけどそれは記憶の中で、今ではもう夢のような感覚。センター試験を終えた夜だった。自分の中で悔いる部分が山ほどあって、恐ろしいほど落ち込んでいた。今更テストの出来を振り返ったってどうしようもない、そんなことはわかっている。だけどどうしても家に帰る気分にはなれず、公園のブランコに一人、腰をかけてぼーっとしていた。ら、ユキさんが声をかけてくれたのだ。どうしたんですか。なんて、久しぶりに聞く声。
 「あ、え、こんばんは」
 「急にごめんなさい。これどうぞ」
 ユキさんはそう言ってコーヒーを差し出した。俺がいつも買っているブラック。熱い缶を受け取ったとき、なんだかほっとして嬉しくて、情けないけど少し泣きそうになってしまった。そんな俺の表情をくみ取ったのか、「何かあったんですか?」とユキさんが隣のブランコに座る。「話したくなかったらあれなんですけど」と襟を触りながら遠慮がちにつぶやいた。
 「いや、あの、大丈夫です……」
 恥ずかしさと戸惑いで上手く声が出せない。せっかく気にしてくれているのに、これでは愛想もへったくりもない。どうせなら楽しく話をしたかった。何も話さない俺に狼狽するユキさん。「ほんと平気なんで」としどろもどろに言うけれど、ユキさんはブランコに座ったままだった。
 「――あ、星が」
 すると、ユキさんが急に天を見上げる。地面の草ばかり見ていた俺だったが、顔を上げるきっかけを貰った気がして上を向いた。
 「……綺麗、ですね」
 思わず吐息が出る。夜空は星できらきらしていた。海底のごとく深い闇色を、小さなまたたきが浮き沈みしている。ちらちらと動き、金平糖や金雲母などに例えられるような、たくさんの粒は微かな光のそれとなる。彼らで冬の星座は大きく広がり、レースのような黒雲が今宵の舞踏を誘っていた。
 「ほんと。綺麗ですね」
 ユキさんは真剣な顔でそう言い、割と長い時間星空を眺めていた。最初は俺もつられて眺めていたが、手にあるコーヒーの温度が下がっていくにつれ、知らないうちにもユキさんの横顔を眺めていた。ベタな展開だと思った。自覚したときに少し照れ、地面に置いてあったかばんに冷めた缶コーヒーを入れる。その音でユキさんが我に返った。
 「すみません、冷めちゃいましたか?」
 いやいいんですまた温めますからと俺は笑い、ありがとうございますとお礼を言った。気付けば泣きそうな感覚はなくなっていて、心の憂鬱も少し小さくなっている。ユキさんは星に夢中になっていたことを謝りながらまた襟を触っていた。
 それ、癖なのかな。
 首に手をやるユキさんの仕草。襟をいじると覗く喉の形に、なんだか胸がつらくなった。俺を見る表情、頬には夜の紺色をのせて艶めき、乾いた口紅のアプリコットから貝殻のような歯が見える。ユキさんは俺のことをどう思っているのだろう。駅の近くですれ違うただの男子高校生? 普段の接点はないけれど、俺にとってユキさんはただの女の人なんかじゃなかった。話をするのがまだ三度目でも、お互いのことだって何も知らなくても、それでも今日、声をかけてきてくれた。コーヒーを貰って、星を一緒に見ることができた。もう、それで十分だった。
 「付き合って下さい」
 俺は言う。
 「付き合って下さい。好きなんです」
 大きく跳ねた心臓を飲みこみ、ユキさんを見つめる。ユキさんは驚いているようだった。大きな目を見開いて、その目を更に大きくしてまばたきも忘れる。冬の夜風がふわりと吹いて、彼女のまつげを揺らしていた。ブランコの鎖がキィと鳴る。ごめんなさい。ユキさんが言った。襟を触り、また喉が見える。電車の音がたばこ屋の角から訪れ、すぐにどこからか踏切の音が聞こえてくる。
 「……わかりました」
 俺は落胆した。
 「すみません、名前聞いてもいいですか」
 だけどせめてでも、と質問を付け足す。ユキさんは語りづらそうに口を開き、「えっと、梶田雪です。冬生まれで……」と言った。カジタユキ。そのときから俺の中でユキさんはユキさんになった。安直な名前だと思った。――何を、期待していたんだろう。髪を無造作にかき上げる。
 「なんかすみません」
 俺は苦笑して立ち上がり、駅まで送ります、といつかと同じセリフを言った。ユキさんは少しうつむき気味に立ち上がり、ありがとう、と笑った。

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 「わたし、三月生まれなんです」
 駅までの短い道のりの途中、ユキさんが誕生日を教えてくれた。冬生まれって言ってたのに春じゃないですか。そう言うと可愛く声を出して笑う。沈黙にならないよう気を使ってくれていることがわかった。なんだか自分が情けなかった。話題を振ってくれるユキさんに、俺もつまらない話をする。自分のこと、センターで上手くいかなかったこと、ユキさんに会いたいがためにコーヒーを買い続けていたこと。冗談っぽく気軽に話せばユキさんも笑って聞いてくれた。並んで歩いているこの時を、俺はこれから何度もくりかえすのだろう。
 駅に着いたとき、次の電車が来るまでにまだ時間があることがわかった。ユキさんと俺は駅前のベンチに座る。仕事帰りの人々が数人、バス停に並んでいた。街灯が青く眩しく、そのせいで星がよく見えなくなってしまった。
 「……嬉しかったです」
 ふと、ユキさんが唐突に話を始めた。また少しだけ語りづらそうに、けれどどこか照れているようにも見えた。垂れてきたおくれ毛を耳にかけ、ちらりと俺を見る。
 「当たりのコーヒーをくれたとき」
 そう言ったユキさんは自分の息で両手を温めている。手入れの行き届いた爪が、コートの袖から見えてぴかぴかとしていた。
 「すみません。コーヒー飲めなかったのに」
 「いえ……子供舌でお恥ずかしいです」
 「あー、否定はしないかもしれません」
 少し意地悪にそう言うと、ユキさんは「否定して下さいよー」とすねたように笑う。ユキさんの言葉すべてに、何を返せばいいのかわからなかった。必死にやわらかい言葉を選び、手探りで返事をしていた。どんな返事をすれば気を使わせずに済むのか、正解がわからない。
 「機会があればお礼を返さないとと思ってて、それで今日ちょうど公園にいるのが見えたから……」
 律儀だなあと思った。ただのお礼、そりゃそうか……俺が勝手に喜んでいただけで。うつむくと、膝の上におかれた自分の握りこぶしが無意識に震えていた。
 「あの、コーヒーを貰ったとき、わたし仕事でミスして落ち込んでたんです。職場でも居辛くなって周りの人とも話しにくくなって」
 また勝手に沈んでいた俺に、ユキさんがさっきよりも声を大きくして言う。顔を上げるとユキさんが俺を懸命に見つめていた。思わず視線をそらしてしまう。
 「深い意味はなかったのかもしれないけど、コーヒーをあげるって声をかけてくれたことが本当に嬉しかった……。駅まで送るって言ってくれた優しさも、知らない男の子にこんなこと思うのはおかしいのかもしれないけど、何度も思ったけど、やっぱりわたしはどれだけ考えても嬉しかった」
 ユキさんの声はかすれていた。俺は次こそしっかり顔を上げ、ユキさんと目を合わす。今度はそらさなかった。街灯に照らされ明るくなった彼女の表情、それはまるで消えてしまいそうに切なかった。瞳が光を反射する。宝石のようだ。さっき見た星空よりも、ユキさんははるかに美しかった。
 「どういうつもりで言ってるんですか、それ」
 俺は訊く。嬉しかったと言ってくれるユキさんだけど、そんなことを言われるとまた期待してしまう。歯止めがきかなくなって、このままユキさんを帰したくなくなってしまう。ずるいと思った。彼女は俺に何を伝えたいのだろう。ユキさんは俺を見つめたまま、ただ白い息を吐くだけだ。鼻が赤くなっている。同じように耳も赤くして、ついに何かを言おうとした。だけど一瞬で口をつぐんでしまう。
 「ユキさん」
 俺がそっと肩に触れると、ユキさんは泣きそうな顔をして立ち上がった。
 「来週から地方に異動するんです」
 瞬間、踏切の音が鳴り響く。つんざくようなそれは俺の脳内を掻き乱した。地方に異動? ユキさんが? ユキさんはベンチに置いてあった黒革のかばんを肩にかけ、白く細い指でやっぱり襟を触った。
 「ここからだと遠いです。電車に乗っても何駅先か数えるのが面倒なくらい。わたしは地方で頑張ります。忙しくてきっとこの街のことなんて思い出していられない。薄情でしょ。だからわたしのことは忘れて下さい。そんなに素敵な女じゃないですから」
 ユキさんは早口でそう言った。電車がホームに滑りこみ、ここから残像が見える。時間切れだった。ユキさんは深くおじぎをし、定期券を取り出しながら改札に駆けていく。
 「待って下さい!」
 俺は慌てて立ち上がり、ユキさんの後を追いかけた。敷きタイルの溝につまずきながら、何度も彼女の名前を呼んだ。するとユキさんが立ち止まる。笑えていない笑顔で振り返り、一緒に立ち止まった俺の顔をそっと仰ぐ。
 「……コーヒーは、誕生日までに飲めるようになっておきます」
 淡い声だった。俺は何も言えず、電車が停車する音と共に走り去っていくユキさんの背中を、呆然と見送っていた。
 それからユキさんと会うことはなかった。電車の時間を変えてしまったのか、それとももうこの街から出ていってしまったのか。それはわからないけれど、どの時間に駅を通ってもすれ違わないし自販機で居合わせることもなかった。

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 俺は記憶の中から目を覚まし、はー、と長いため息を吐く。また霧が生まれ、もう三月なのになぁとぼやく。家に帰ろう。こんなところに来たってユキさんはいない。わかっているのに俺はまた思い出に入り浸って、こんなふうに追いかけて……忘れろって、言われたのに。
 今日はユキさんの誕生日。
 やっぱり衝動は怖いと思った。夜中の公園に来るだけ来て、体を冷やすはめになる。動かずにはいられない。俺は公園を出ることにした。たばこ屋の角を曲がり、いつものようにコーヒーを買って帰ろうか。寒さでおかしくなりそうだ。
 「……飲めるようになりましたか」
 自販機に小銭を入れたとき、ふと、ユキさんが最後に言っていたことを思い出した。コーヒーは誕生日までに飲めるようになっておく。ボタンを押し、ガコンと乱暴に落とされた缶コーヒーを手に取った。温かい。プルタブを持ち上げ舌をやけどしないように飲み進めていく。ピピピピと派手な音を出しながら、当たり機能のパネルが動いた。四つのデジタル数字が順にランダムで決められていき、最後にはハズレの音楽が鳴る。コーヒーを飲みほした俺は、プラスチックのゴミ箱に缶を投げ捨てた。少しは体が温まったか。しかしどうしたことか足が動かない。自販機の前に突っ立ったまま、俺は踵を返そうとしなかった。ああ、帰るのが惜しい。帰りたくない。もしかしたら、もしかしたら、ほらまたいらない期待をして。振り返れば、そこにあなたがいるような気がした。
 俺はもう一度自販機に小銭を入れる。コーヒーを選択し、またガコンと缶が落ちてくる。ピピピピと数字が動いてハズレの音楽。そしてまた入れ込む小銭。落ちてくる缶コーヒー。ハズレの音楽。自分でも馬鹿だと思った。だけど会いたかった。死ぬほど会いたかった。
 俺は携帯を取り出す。時刻を確認すると午後11時34分。日付が変わってしまうまでにはまだ十分時間があった。
 当たりを出そう。
 ユキさんの誕生日が終わってしまうまでに当たりを出そう。もしも当たりが出たら、会いに行く。決めた。俺はユキさんに会いに行く。
 くだらない衝動だった。俺は自販機に小銭を入れる。コーヒーのボタンを押して落とされる缶。パネルの数字が動き始めた。一桁目、7。二桁目、7。三桁目、7。そして四桁目、6。俺は再び小銭を入れる。それから何度も何度も自販機は硬化を飲み込んだ。そのたびに同じボタンを選択し、いくつもの缶コーヒーが落ちる。パネルの数字はひっきりなしに光りだす。
 5543。8884。3332。6868。1110。4443。6667。0001。9988。1222。3456。7566。5556……
 数字の羅列をいくつも見ていた。こりずに何回ボタンを押したことだろう。気が付けば足元には大量の缶コーヒー。初めの方に買ったものはもう冷めてしまっている。大出費だった。それでも小銭を入れるのをやめない。会いたい。諦めたくない。ユキさんにおめでとうと言いたい。
 人通りはほとんどなかった。時々誰かの足音が聞こえ、みんな俺を見て気味悪そうに去っていったのだと思う。寒さで耳が痛い。相変わらずに風は吹き、未だに山の木々を揺らしている。ざわざわと騒がしい葉の合唱。空からはやんだはずの雪がまた降り始めた。かじかむ指で何枚目かの千円札を崩す。コーヒーのボタンを押すと缶が落ち、同じタイミングでおつりの返却口に数百円が注がれる。慣れた手つきで小銭を回収し、また次の投資の準備をしたときだった。
 3、3、3、3。
 パネルの数字がそろった。耳にタコが出きるくらい聞いたハズレの音楽とは違い、滑稽なファンファーレを歌いながら自販機のボタンがまた光る。
 「やった! 当たった、当たったぞ!」
 俺は有頂天になって最後のコーヒーを選択した。落ちてくる缶。たまりにたまった足元のコレクションにその一本を追加し、俺はその場にしゃがみこんだ。笑えてくる。
 悲しくて悲しくて、仕方がなかった。
 胸はもがれるように痛く、だんだん激しくなっていく雪の勢いに凍えてしまいそうだ。時刻は午前0時18分。日付はすでに変わっている。
 「馬鹿じゃねーの……」
 そもそも会いにいけるわけがないのだ。もし仮に日付が変わるまでに当たりが出ていたとしても、終電はとっくに過ぎている。百歩譲って電車が出ていたとしても、ユキさんが暮らし始めた街までどれほどの時間がかかることか。考えればわかることなのに、どうしようもないことにいつもいつもすがって期待して。
 愛は衝動だ。
 衝動というのは恐ろしいもので、好きがこぼれると途端にあなたを抱きしめてしまう。近付いた先に正解があるような気がして、夢中になって動いてしまう。だけど触れてみて初めてわかること。それは本物の正解だったり、戻したい時間だったりするのだ。
 降りしきる雪の中、俺は泣いてしまった。想いがあふれてとまらない。願っても願いきれないこと、叶えられないことに糸のような期待を抱き、寂しいことに人はそのわずかな願いを支えにでも生きていけるのだ。
 風が吹く。星が流れ、闇の中に消える。子供舌じゃないけれど、もうコーヒーは飲めないと思った。